民学同の歴史・体験・思い出文書  No.8

特集:民学同15年の軌跡より>
   歴代・同盟東京都委員長の思い出

           「新時代」誌 第12号 1979年2月14日

〈以下は、先日、東京で開催された同盟創建十五周年記念集会″での、歴代東京都委員会委員長・その他の諸先輩のあいさつを文章化したものである。尚、初代都委員長あいさつは、本号前項に掲載〔−文責は編集局)

 M・T氏
 皆さん今晩は、Tです。
 今話された、Mさんなんかが東京で民学同という組織をつくられて、僕たちの世代は、御存知の通り、六八−六九年の学生運動の非常に高揚した時期、そういう時期の中で、都同盟というものに対して指導してきた、そういう時代ですね。まあ、十二回大会はもうちょっと後で話されると思いますが、Y君なんかの時代だったと思います。六八−六九年の一つの大きな成果、学生運動の成果は、現実的な学生運動をつくり、それが今の民学同を非常に大きくしてきたというふうに思います。
 今、Mさんがちょっと思い出話みたいなものを話されましたけれども、(僕の場合も)たいした変わりのないもので、僕が民学同に入った時も、わけが分からない。僕はR大だったんですけれども、先輩に何かわけが、わからなかったんですけれども学習会に来いと言われまして、ついていったわけです。学習会に出ましたら、ちょっと選挙があるから手伝ってくれということだったので、僕なんか人が良いもので、あーそうですか、というふうに非常に素直に手伝いをした。そうすると、ある時、ちょっと喫茶店に来てくれないか、という話で、今もまあだいたい同じ様なことだと思いますが、Mさんだとか、Yさんだとかが釆まして、自分達は民学同という組織なんだ、お前もも入れ、と言われたんです。入れ、というふうに言われてもどういう様に入って、やっていくのか分からないので、しばらく考えさせてくれ、といったんですが、こういう問題は考える問題じゃあないからなあ、と言われましてね。今はよく覚えていないけれどだいたい二時間位粘られましてね。しようがないから入った方がいいんじゃないか、と思いまして入ったんです。当時は六八−六九年の時代、僕は六八年だったんですけれども、六八年という年は全共闘運動が非常に盛んな時期で、日大全共闘とか、東大全共闘なんかあったんですけれど、そういう運動に非常にあこがれてましてね。何か、非常に、デモにでても決して多くはなかった民学同の組織の中で、はずかしいなあと思いましたけれども。そうこうするうちに、R大には誰も指導に来てくれない。東京都委員会があるということを聞いていたんですけれども、都委員会のメンバーは普段はだいたい指導してくれるんですけれども、何か色々忙がしかったらしく、M大の方で、ブントと何かあったらしいんです。けれども、そういう時だけ、お声がかかるんですね。ちょっとM大の方が大変だからちょっと来てくれないか、という話で。それでM大の方へでかけていくと、何か自治委員会があるから、ブンドに殴られるかも知れないからちょっと防衛隊でここを守っといてくれ、というような時代であったんです。その当時は、M大のメンバーが非常に多く、デモをやると、M大だけの隊列を作った。M大の隊列は大体一〇〇か二〇〇名位の隊列だったですけれど、非常に多かったですね。まずもって、その指導が良かったんだろうと思います。そういう一つの同盟ができていく過程ですから、指導が他の支部にも充分に及んでいなかったという弱点があったのではないかと思いますけれど。今だからそう思うのですけれど、当時は非常に頭にきました。なんで、指導してくれないのか、勝手に入れるだけ入れといて指導もしてくれないから非常によくない、という様に頭にきた。それで、そうこうするうちに、一年位たちまして、うちの大学にも自治委員選挙があって、僕たちは御覧の通り、非常に軟らかい戦術をたてるグループでしたけれど、あまり過激的なことをやらないんですけれど、僕なんか、非常に消極的なもので、革マルとか中核とか、この辺の人達と一緒にやっていた。大体、R大の場合は○○人位は入ったんですが、たいがい皆、各党派を作って出ていったんです。中核を作ったり、当時のべ平連、また革マルを作ったりそういう人達と当時は一緒にやろうということで一緒にやってまして。その自治会選挙の時、執行委員長に出る予定の人が、革マルの人だったんですけれど、急に腹痛になったんですけれど、その腹痛というのは後で聞きますと仮病で、自分がやりたくなかったので腹痛になったんですけれど、それで急拠、おまえがやれ、と言われまして。誰もやるやつがいないからということで、革マルとか中核だとか、その辺の人達が推薦してくれまして、この僕を。それで執行委員長になったんです。そうこうするうちに、全体的な学園闘争が下火になって。大体、R大の学生運動は六八−六九年は下火だったんです。他の大学がおさまってくるとR大の方が興奮してきて、全学ストライキ・無期限ストライキというのをやりました。
 そうこうするうちに、R大もだんだん人数が増えてきまして、例によって例の如く、何でもいいから入れや、という形のオルグをやりましてね。一定程度の人数まできたのです。そういう情況で(都委員会の委員長も)M大のメンバーがずっと出ていたけれども、R大の人数が増えてきたことから、(おまえが)委員長をやりなさい、という話になって、それで僕が委員長になったんです。まあ、短絡的に話しますと、あれは何なやっていたんだろうな、と思われるよくないもので、あまりそういうふうに誤解しないでほしいのですけれど。僕も一生懸命やってきたわけで、それなりに努力はしてきたのですけれど、あまり充分な努力はできなかったもので、今、反省しているわけです。これからも、若いどしどしこういう若い人達と、僕もまだ若いんですがまだ、二八位で、民学同を卒業してからー民学同を卒業するというのはおかしいが一大学を卒業してから五年目ですけれど、まあ労働運動の中でそれなりに頑張ってるんです。まあ、変な話になりましたけれど、非常に馬鹿馬鹿しい話な至しまして。
 今日は記念集会ということで、先ほどもMさんがおっしゃっていましたように、僕たちの時代から比べますと、今の人達というのは非常に人数的には多いわけであります。だからその多くの人達がですね、結集してきている民学同というものが、より一層、僕らのやっていた非常に低水準の運動ではなくして、もっと水準の高い、そういう運動をやっていただける様にこれからも一層の努力をしていただきたい、と僕は思うのです。それから、様々な問題がありまして、僕達がやっていた頃には学生共闘派という人たちとの分裂がありまして、−学生共闘派の諸君の前にも何かありましたね、六七年頃に、その時は入ったばかりでよくわからなかったのですが−、それからデモクラートな作ってゆこうというふうに、僕なんかは一緒にやってきたわけなんですが、なんか知らないうちに別れてしまったという形で、民学同も今は三つあるという形になっていますけれども、そういうものもいつか時間がくれば、いつかは統一できるのではないかというふうに楽観的に思っているのですけれど、まあ、結局は統一できる方向になってほしいし、僕なんかも昔のお友達なんかもいるわけですが、そのお友達とも話をする中にですね、まあなんとかうまくやってゆけるようになるんではないかと思うんですけれども。
 まあ、非常に馬鹿馬鹿しい話になりましたけれど、あまりこういう所で話をしたことがないものでうまい話はできませんでしたけれども、これからの民学同のより一層の発展な解ってあいさつとしたいと思います。

K・K氏

 民学同十五周年記念、おめでとうございます。
 私は、只今紹介されましたTK大支部OBの一人としてお祝いの言葉を述べたいと思います。先程、Tさんの方からも少し話されたと思いますが、TK大はまず始めに、いわゆる「学生共闘派」の支部が建設されたわけです。そこでは、他の同盟関係大学ではほとんどそういった経験はないと思いますが、いわゆる内ゲバ、本当の内ゲバ、すなわち同じ民学同という名前の中で、鉄パイプこそありませんでしたが、約二カ月ほどTの地に内ゲバという状態が続く、その最中、同盟再建第十二回大会、民学同統一会議から中央委員会へ発展させる歴史的大会に合涜していったわけです。それ以前においては、当時、私たちは民学同それ自身が「学生共闘派」、統一会議と二つに分裂している事を知らずにいたわけで、例えば、東京の集会とか、また広島での学生階層別集会(原水禁)等に参加して始めて、民学同を名乗る所が二つある事を知ったという状態だったのです。そもそもTというのは、ここ東京とはまるで違いまして、大学は群馬全体でも四年生大学が三つしかない訳です。東京の様に、学生運動のさかんな所ではもともとありませんから、始めてそういう所に行って事態がわかった訳なんです。
 まあ、そういった状況の下で運動を進めていったわけなんですが、そのうち学内においては中核派が暴力的に全面的に支配していくという状況になり、非常に困難な運動を強いられました。しかし私たちは、地道に大衆運動を築きあげ、その中で力量をのばし、また理論的に打ち鍛えられていき、全学的運動を構築していくまでに至ったのです。そこにおいて、学生共闘派の誤りは除々に大衆の前に露呈されていきました。その一つは、彼等の平和運動の中における政治主義です。これはその当時の学生階層別集会の中で既に明らかになっていましたが、平和運動自体が持っている大衆的な基盤、大衆的なエネルギーを政治課題の押しつけによって解消させてしまう事を意味しました。二つ目は、「学生共闘」という名前自体に体現化されていますが、基本的な運動基盤を実行委員会形式におくこと、そして、彼等の言う「学生共闘」それ自身を「大衆団体」として組織するわけですが、それは名前のみの「大衆団体」であり、内実は彼等の政治路線をそのまま持ち込むもので、実質は民学同のかくれみのでしかないものでした。これ自体は、やはり彼等が私達の様に森さんとか皆さんの学ばれている森さんの哲学的側面、あるいは組織的な内容・思想的な側面をその統一の中において、きわめて政治主義的なセクト主義的な運動路線であるということを、実践・理論的な経験の中で把握していく、その意味でこれは克服していく必要があるという意味です。東京の今の諸君が、今の民学同東京都委員会に対して、積極的にこちらが話なしていき、当時の委員長が今あいさつされたTさんでした。彼から援助な頂きまして、第十二回大会の同盟再建以降、統一に向けて一緒に合流していった訳です。まあ、一応成果がありまして、御苦労もありまして、御協力もありまして、中核派の暴力による一元的支配の中でも、ほぼ全学的運動のへケモニーな私たちが握るまで一時は発展していったのです。
 しかし、これまた、デモクラート派との分裂、いわば残念な分裂の中で、影響な受け停滞していってしまったわけです。そして、遂に三年前、最後の同盟員の卒業と同時に支部は止むなく解散に至.ってしまったのです。非常に先輩の一人としても、自分達自身としても残念でした。今、振り返ってみて、充分にかみしめている所は、過去、在学時代に私たちがやってきた平和委員会や唯物論研究会などの大衆サークルが民学同が停滞すると併行して活動が沈滞していったわけですが、唯物論研究会だけは残り、極めて地道な活動を展開し続け、その会員であった優秀な学友が結集し、再び輝かしき民学同TK大支部の伝統が受け継がれていった事を見る時、どんな困難な状況にある時でも正しい運動を継続し、正しい思想を継承していくならば、必ずその地道な闘いは身を結び開花するという所です。私たちは、それを貴重な教訓として確認していかなければならない、かように思うわけです。
 自分自身としても、思想の内容の充分な伝統というものは、まだまだ不充分ではあれ、これからもOBとして援助していく中で民学同の強化、私たち自身、労働者ですから労働運動の面からも協力し、日本の新しい社会な築いていく為に頑張っていきたいと思います。
 今日は、本当に十五周年、おめでとうございます。

K・Y氏
 民学同創建十五周年、おめでとうございます。
 私が、都委員長をやらせていただいた時は今ここで話をしていたTさんや、今デモクラートにいってしまった大阪のSさんが中心となり、第十二回再建大会を開催し、統一会議時代に終止符をうち、全国的に組織された民主的な中央集権制の全国組織に発展させる全同盟的努力がなされていました。その為には六八・六九年の全国学園闘争の高揚と、その敗北をきちんと総括して、我々が正しく学生運動を発展させることができるような科学的な理論に基づいた運動理論を確立しなければいけないということでした。私は、第十二回大会記念テーゼを、彼らのイニシアチブにより作成し、その下で働かせてもらったわけです。
 思うに、七三年は、日本と教育をめぐる問題で非常に大きな結節点となった年でした。つまり、それ以前の教育再編が主要に現状の法体系の枠組みの中で可能な限りの再編攻撃を行なってきたのに対して、新しい法体系−既存の法体系の枠を超えた先導的指向というやつです。独占の為の高等教育・大学教育を作り出していくこと、そういう技術開発と人作り政策というものに本格的に乗り出してきたわけです。
 今日では、本日の集会を記念して発行された新時代誌にも記載されているようやすが、教育再編の現状と我々をとりまく情勢を確認すると、不幸なことに、こうした教育再編が進んできてしまっていると思うのです。
 ともあれ、非常に歴史的な転期であったと思うわけですが、筑波法案粉砕の闘いは、十二回大会以降、理論的にも、政治方針においても、それを闘う組織の内部の意志統一においても非常に充分な時間をかけて、組織的な統一を打ち固めて闘い取られた、ということです。当時、客観的な情勢からして非常に必要なことは、客観的に存在するエネルギーをいかにして全国的な大衆運動として組織化するか、ということだったわけです。
 にもかかわらず、当時まだ民学同が小さな組織だったので、直ちに全国的な闘争を組織化していくことは、極めて困難でした。
 こうした中で、我々は民青「全学連」、あるいは、その他の潮流が日和見主義におちいっているもとで、典型的な大衆的な闘いを通して、全国学友に実例の力で闘いへの決起を呼びかけていく、そういう方向が最も必要ではないか、と考えたわけです。ですから、R大の理工学部の学生大会を開催して、その学生大会決議にもとづいて、六月二三日の筑波大学法案粉砕のための全国統一行動を行なおうではないか、と呼びかけました。そして、0大学がこの呼びかけに学生大会決議で応え自治会間の統一行動が克ち取られたのです。自治会執行部のひきまわしということではなくて、言葉の真の意味において直接大衆が参加し、大衆自身の手によって決められていく学生大会、そしてそこで決定して、ストライキに決起していくという形態を実現することに最大限の努力を傾注しました。闘いは、ここにも来られている同志の人達とともに進め結果的に全国統一行動に一五〇〇名の学生大衆を統一行動に決起させることに成功したのです。
 ふり返ってみて、私自身、今一番感じることは、ちょうど時期としては、いい時期に民学同の都委員長になることができたなあ、というある種の感激です。そして、それ以上にこの闘いの成功の基本的条件というものが、それ以前の活動の中で克ち取られていた、ということです。すなわち、民学同が統一会議という非常に日本学生運動全体を指導する上で、不充分な組織形態を清算し、六八・六九年の闘いの敗北をきちんと踏えて、そこから重大な教訓を引き出して、釆たるべき学生運動の爆発的な高揚を闘い取るための政治的・思想的・組織的準備を確実に進めてきたことの結果として得られた成果である、ということです。
 同時に、理論誌が刊行されて、独自の自立した大衆運動としての学生運動、これを指導する民学同自身の理論的発展の努力が展開されていました。当然、民学同は、あらゆる組織から自立しているわけですから、理論的・思想的蓄積を保障し、組織の力量を不断に保持し、発展させる意味からして重要な活動だと思います。
 ただそういうことが、思想的な自立、あるいは、労働青年同盟との思想的相異を全く意味しないことは、言うまでもないことです。
 学生運動を導いていくうえでの理論的強化と理論的・思想的統一、そのことが不可欠であるとけう立場での理論活動が先輩達の手によって開始されて、それを引きついでいく上での橋渡しの役もさせてもらったわけです。
 その後、着々と幾多の全国的な取り組みを成功させていく中で民学同も大きくなってきました。
 けれども、非常に申し分けないと思っていますが、デモクラート派との分裂を経験しました。私もこの分裂には重要な責任を負わなければならない一人です。力及ばず結果的には不幸な分裂という事態になってしまいました。
 やはり、我々はこの中からも貴重な教訓を導き出して、改めて、我々の主体的な運動を強化していくことを通じて、セクト的な小さな枠に閉じこもるのではなくて、全国学生にかけられている攻撃を粉砕する闘いの先頭に民学同が起ち、全国的な統一闘争を展開しなければなりません。そして、こうした闘いを踏え、もう一度、民主主義学生同盟の広大を統一隊列を実現しなければなこbないと思っているわけです。
 こうした闘いを今度は、場所は異なりますが、民学同と兄弟的関係である労働青年同盟(準)の立場から、引き続き努力させていただきたいと、思っています。
 最後に、日本の学生運動が確実に再び、爆発的な高揚の時代を向えるであろうし、その時には民学同の部隊が闘いの先頭にいるだろうことを確信したいと思います。こうした明日を闘い取る上で、考えねばならないことは今日、学生運動の沈滞という不幸な現状にありますが、その一番根本にある問題として全国二二〇万学生大衆が必ず決起するという確信が指導部にないということです。つまり、諸党派は、非常に根深い大衆不信にやられてしまっているのです。
 民学同は、先輩たちが残し、こうして今この場にきている多くの同志たちが発展させている、又、第十二回大会でも明らかにした、学生は必ず全体として決起するという必然性を科学的な分析にもとづいて明らかにしたテーゼ、学生運動−層としての学生運動論を持っています。科学的理論に裏打ちされた不動の確信をもっているが故に、我々は、日本の学生大衆が全体として決起するために必要な共通する利益をきちんと取り上げ、先頭にたって擁護し闘わねばなりません。
 そして、六八・六九年の全国学園闘争の中で破壊された全員加盟制自治会が、再び多くの点で赤色自治会と化し、また他方におけるサービス機関化、これらに加え、今日では独占の御用自治会化策動という新しい困難が加わっています。全国学生の共通する利益をきちんと擁護し、その先頭になって闘いながら大衆的な自治会を建設していく、そして、これら自治会の連合体としての全学連そのものを再建していく道が、我々の前に確実に開けています。また、この道を力強く進んでいかなけれならないのではないか、というふうに思っているわけです。
 同盟の大衆に対するゆるぎない信頼を一つの重要な財産として、現実の諸闘争を今後とも力強く展開してもらいたいと思います。私も、民学同で学んだ多くの事を労働青年同盟で諸同志と頑張っていきたいと思います。

R・S氏
 Sです。私もいろんな諸先輩の運動の中でその指導の下に、ちょうど五年間運動をやらせていただいたんです。その運動の入るきっかけですが、最初言われました時代と同じように民学同に入ったわけです。
 私がTY大学に入ったのは七〇年です。この年は、七〇年安保闘争の大高揚の時代ですね。友達にオルグされて、民学同に入った人が沢山いると思いますが、私もそうでした。友達が民学同に入って活動していまして、あの六九年の羽田現地闘争や七〇年安保の前哨戦としてあった十一月羽田現地を全都一〇〇〇の隊列で闘うとか、言われて加盟したわけです。そのつもりで、学生部隊で一〇〇〇か
一五〇〇ぐらいというふうに聞いたと思うのですが、それ程の部隊で闘っている学生組織は他にないと思ったわけです。加盟したのが入学してすぐの四月二九日でした。その日、R大の神楽坂で日ソ親善の集いをやっていた時に加盟書を書いたんです。
 民学同に入って最初のころ、沖縄闘争で闘いに参加した時、数十名ぐらいしかいないんです。一〇〇〇数名が、六八・六九年の闘い、安保の前哨戦で座折したのか、これは大辺な組織に入ったなあ、と思いました。又、大学に行けば、一〇〇〇名程の人達がいるということだから、幾人かの民学同の部隊が居ると思ったわけです。そのころ、大阪府学連の運動について耳にタコができるくらい言われましたから、自治会の一つや二つあると思っていたのですが、入ってびっくりしました。TY大学には、結局、僕一人しかいないんです。もう、ヘルメットの学生がいっぱいいましてね。七〇年安保の六月、それから毎日、クラス討論におわれて、六月十五日・二三日あるいは七月二八日の闘争を展開したわけです。その時には、きまって大学当局は、「今日は、社会的に、あるいは学内において政治的困難がおきますのでロックアウトにします」というように、いわゆる政治的昂揚期の中で、民学同に入っても民学同の運動がどうしても大衆的で巨大な運動として、どうしても展開できませんでした。その時の、僕の率直な実感でした。
 話が、昔話になって恐縮なんですが、その意味では、当時、東京の民学同が七〇年代初期においてR大とM大を機関車の両輪のような形で運動が推進されながら、民学同の東京における大衆的基盤が確立されたわけです。というのは、私のTY大支部も、様々な形で全都からの動員だとか、集会への動員という形で何回となく支援をしてもらいました。こうしたように、支部を建設するということがどうしても一人だけの力ではなかなか困難です。組織の力の偉大さと組織のもっている理論的な確信が、僕のようなどうでもいいような一人の人間が一人で大学に入って運動を始め、巨大な支部建設と大衆運動への大きな影響力をもって闘いが展開されてきたわけです。
 私が、都委員長を務めたのは、第十二回大会とその後の筑波法案粉砕の全国闘争を展開したY君の次の時期です。ちょうど一年都委委員長をやらせていただいたわけです。都大会が、○○○名を超えることができなかった時代です。
 筑波法案粉砕の闘いの中で、R大のように一つの大学で何百という形で動員し、巨大な運動をつくりあげながらも、民学同都組織の強大な建設に充分に結びつかなかった局面から一年間ですね。
 闘争としては、横須賀の現地闘争、それから横田の反基地闘争と、僕の時代は、安保・沖縄闘争が終って民主勢力が後退していく中で、反基地闘争ばかりでした。
 毎日・毎日といっては語ヘイがありますが毎週一度ぐらいは横須賀に行きました。しかし、大衆的な運動は、充分展開できなくて、行く度に私達の部隊がじり貧傾向になっていったのを覚えています。しかも、週一度ということだから、つかれてくるわけです。それも、一週間ずっと天気がよかったのですが、動員の日になると必ず雨が降りました。
 そういう意味で困難な反基地闘争の中で、R大支部の戦闘的な闘いの教訓を導きだしながら、私のTY大学も大衆的な闘いを展開し支部建設も進んでいったわけです。
 私の時代以降からは、M大・R大の車の両輪がM大組織のじり貧傾向の中で、今ではこうして見回してもM大の旗が見あたらないようですが、だいぶん都組織も困難な時代であったようです。
 困難な情況の中で組織の統一性と組織の団結の下、大衆的政治同盟の建設と、大衆的で系統的な運動がどうしても必要になってきているのではないでしょうか。
 これは、第十二回大会・十三回大会で確認され「民学同一〇年の歴史と労働青年同盟結成の意義」という形でまとめられたように、労働青年同盟の建設と民学同との兄弟的関係の強化を実行に移すべきことを意味しているのではないでしょうか。
 民学同が四年サイクルということで、理論的政策的な蓄積が思うにまかせない現状は、今も、さほどかわりはないと思います。
 理論的政策的蓄積の弱さは、民学同の分裂という不幸な歴史を形成してしまった基本的原因の一つでした。分裂を経ながら、その教訓の下、労働青年同盟の結成を提起されたわけです。もちろん、民学同の強化は前提として確認しています。
 大衆的で、戦闘的な青年同盟結成にむけ、多くの諸先輩による活動が展開されてきたわけですが、その過程で内容において青年同盟建設と前衛党再建の問題を明確に区別し、ともに建設していくことをネグレクトする事態が生まれました。その意味では、両方の解党主義があったのではないか、と思っています。それは、デモクラートの諸君らも、ともに学生共闘派との分裂の教訓、六八・六九年闘争の教訓を打ち固め、東京・大阪における大衆的な民学同の再生にむけて闘いを組織してきたあの二年間が、そうした民学同の限界性を突破することなく、デモクラート派との分裂を招いてしまったことに示されていると思うのです。
 私は、諸同志とともに、その後、大衆的・民主的な学生同盟の建設と、青年同盟の建設を、卒業してからちょうど三年になりましたが、展開してきました。
 この経験の中には、こんなこともありました。私達は、各級機関の決定事項について守らなければならないと教えられていますが、決定事項を守らない支部もありました。都大会の席上でも、保留にする人達が、それも集団的に保留する人達がいました。今、都大会がどうなっているか、わかりませんが、その当時、民学同が政治同盟なのだから全員一致で方針についてやるべきだ、との論議にもなりました。結局、各大学単位で保留の手があがったりして、かなり悲惨な都大会をしてきたわけです。
 こうしたことを行う中で、強制的に処理するのではなく、理論的・政策的を一致に基づいた大衆的で戦闘的な政治闘争の展開で、民学同の統一と団結を打ち固めていき、そして理論的・思想的蓄積を克ち取ること、明日の労働者階級になる多くの人達とともに青年同盟建設の闘いを展開しながら、青年・学生運動の共同行動を展開していく過程で、問題を「歴史的に清算していく」必要があるのではないか、こう考えるわけです。闘いの中で、一つ一つの諸事件を克服しながら、大衆的で戦闘的な青年学生運動の大衆的な再生を獲得していく必要があり、七〇年代後半から八〇年代にむけた闘いとして、どうしても私達が闘い取っていかなければなりません。それはちょうど六〇年代の当時からありました反戦青年委員会と全学連との関係と同様に、六八・六九年全国学園闘争を揺り動かした、さらに安保闘争の昂揚という大衆的な青年学生運動の形成にむけ、一歩一歩前進しようではないですか。
 私も、労働青年同盟として、闘いをともにしながら、兄弟的結びつきを深め、大衆的な青年学生運動の形成の為に頑張っていきたいと思います。
 ともに、頑張りましょう。


T・H氏
 民学同十五周年、おめでとうございます。
 私の前の都委員長のSさんがTY大で、私もTY大なのですが、その後を引きついで、半期だけ都委員長をやったわけです。私の後に、すでに御承知の「ニュー・パースペクティブ」の編集長をやっているSさんがなっているのですが、事実上においては、様々な歴史的闘いをやった歴代の都委員長の助け舟があったのではないかという気がします。
 やはり、私が民学同の闘いの中で印象的なものが二つあります。一つは、すでに言われたようにノースピアで闘われた連日の戦車輸送阻止闘争です。あれは、非常に印象的でした。というのは、学園闘争がおろそかになるぐらい連日、夜中や朝まで座り込みをやるという事態の中で、私も眼鏡を二つこわされた記憶がありますから印象的なのかも知れません。機動隊と非常にこぜり合いをやりました。それで、戦車を止める為に一生懸命やってゆくと、都平連の部隊というのは非常に、来ていた労働者の人達、労働組合の人達に好感をもたれて、信頼を受けるというようなことがあり、それが非常に印象的だったのです。
 あと一つは、R大が数百名というように、非常に大きな結集をはかったR大を中心とした筑波闘争でした。あの当時の私の印象としては、R大のメンバーの顔はだいたい見たことがあるということがあったのですが、そのメンバーの顔は見合たらないのですね。何十人に一人位のメンバーの顔が、やっと見つかる。それほど大衆的なクラスからの大衆動員をしていたという記憶が非常に強いわけです。ですから、今までの都委員長が言われたように、学生が層として決起するということをですね、実例でもって確信できたのではないかという闘いでした。
 そして、私はTY大出身ですが、TY大自身、最初は非常に小さな運動から始まったわけです。今では、多くの同志諸君がいることを聞いて驚いているわけです。自治会が偶然に最初はころがりこんで来たわけです。というのは、中核と第四インターの間をぬって副委員長のポストについて、その後、第四インター・青解などの内ゲバに入り、学内に諸党派が恒常的に登場できなくなってしまうという事態の中で、自治会だけはやっていこうと、委員長を代行してやっていったわけです。ですから、自治会活動家数人の運動だったわけです。朝から晩まで、授業に出ないでクラス入りばっかりやっているという事態がずうっと続きました。そうした運動が、今のTY大を築いてきたんじゃないかという気がします。
 そういった意味では、様々な闘いを受け継ぎながら、今の民学同がこういう地位まで大きくなってきて、同時に十五年のくぎりをつけ、二〇周年に向けた飛躍としていかなくてはならないの思います。
 そして、是非とも労働青年同盟を結成し、日本の平和・民主主義・社会主義の為に影響力を拡大し、兄弟的連帯を深める二〇周年にさせるように、共に努力していかなくてはならないと思っています。
 私は今、労働青年同盟(準)で活動しているわけですが、ま.だまだこれから多くの課題を解決しなくてはなちない事があります。
 私が民学同に入ったころ、当時学生組織ということもあり、卒業したらどうしたらいいのだろうと不安がありました。ところが、今では多くの諸君らが卒業しても立派に労青で活躍しています。ですから、学生の人達が学生運動で学びきたえあげられたものを是非とも労働運動の中で生かし、日本の労働運動の中で重要な役割を果していただきたいと思っています。
 従って、二〇周年には、労働青年同盟と民学同との兄弟的連帯を軸にした運動が出来る様に、その第一歩としてこの十五周年がなければならないと思っています。以上です。

M・S氏
 同盟創建十五周年、おめでとうございます。
 僕は、都委員長を務めたのは、同盟再建第十二回大会が開催された七三年のあと、七四年の一年間でした。僕の場合は、R大出身なわけですが、ちょうど七四年という年がどういう年だったかと言いますと、世界的に、国際情勢の上で大きな変動の年であったわけです。例えば、ベトナムを中心としたインドシナ三国が完全に帝国主義に勝利し、解放されたのが、実はこの年の秋でした。、
 こういう事情で、当時の都同盟の活動は反戦平和運動の課題が大きな位置を占めました。しかもそういう中で、日本の原水禁運動をはじめ、平和運動全体が新しい国際的な前進を心要とし、模索していた時期でした。ここに入ってきて、まず第一に思いましたが、七四年の原水禁大会に向けた東京の学生原水禁参加団の結団式を、実は、この同じ会場を使用したことでした。その時は、都委員会を中心とした都における平和運動、特に原水禁運動についてば、今までの都委員長からのあいさつにもふれられていたように、数十名とか、百名とかでした。七四年は、そういう時期でもありましたから、この会場には始めて000名ほどの学友が結集して、結団式をやった覚えがあるわけです。最近、聞くところによると、今年は○○○名を越える参加団を組織したということを聞き、僕はここにも都同盟の発展の姿の一つを発見しているわけです。七四年には、都平連が各種の学習パンフレットを発行したり、「核防パンフレット」を製作して、大会に参加した平和活動家に平和と軍縮をめざす、これからの日本平和運動の方向を訴える活動をしました。
 思い出せば、各支部においても、七四年の段階では同盟再建第十二回大会と筑波闘争のような全国組織一丸となって闘った前年を継承して前進した時期でもありました。R大支部の瘍合は、神楽坂におけるある程度の暴力的な集団もいましたから、班の再建・強化というものが具体的に進行し、それが七四年でしたし、TY大での場合は、経営学部自治会の次に今度は、社会学部自治会への強力な指導を開始するというように、各支部の拡大が行なわれました。
 今日は、十五周年ということですから、特に僕は名古屋にいますから、今、労働青年同盟(準)ということで、準備会が結成されて三年目に入って、いよいよ準備会という状態を脱して、これから日本の労働青年運動を全国的に前進させる為に、本格的な労働青年同盟の組織体制とそれから全国的な拡大の作業を一致団結してやっていこうという論議がまき起っているわけですが、そういう意味で民学同OBを中心として準備会を結成して頑張っているわけです。
 民学同にとっては、今年四月に同盟組織が初めて名古屋にできました。僕ら労青愛知はこの名古屋に建設された民主主義学生同盟の発展の基盤を尊重し、その前進のために労青活動とともに、兄弟同盟の信頼と友情的関係を基礎にして、民学同の発展にも寄与していきたいと考えています。
 民学同十五周年は同時に、全学連結成三〇周年であり、日本学生運動が直面している六四年民青「全学連」結成以来の分裂の十五周年でもあります。残念ながら、中部地方の学生運動はこの十五年間に民膏「全学連」の結成のある意味では中心的役割を果たしてきているという特徴を続けています。たとえば、民青「全学連」の呼びかけの中心になったのは「平民学連」愛知グループでありました。そういう歴史からも、すなわち日本学生運動の分裂を克服し、統一を実現していくという任務からして、中部地区学生運動の進むべき道と民学同の趣意・規約は完全に一致している………などと、同盟の後輩・若き活動家たちを激励しているわけです。
 青年同盟準備会と民主主義学生同盟の発展の道は、深い兄弟的同盟関係をもって進むべきであり、両同盟はその活動内容とめぎすべき道において同一でなければならない、とは民学同第十三回大会の意志であったし、僕たちの基本的認識でもあります。
 そういう事で、東京・大阪・名古屋など全国での活動を強めながら、民学同の二〇周年、三〇周年には、全国的な、より拡大された自治会運動や平和運動など、二二〇万学生の真に最先頭を任う中で、また大衆の中で向かえられるよう心から念願しています。

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