アサート No.395(2010年10月23日)

【書評】 『ナマコを歩く──現場から考える生物多様性と文化多様性』
            (赤嶺淳著、2010.5.発行、新泉社、2600円+税) 

 「熱帯雨林の伐採とならび、ダイナマイト漁によるサンゴ礁の破壊が『地球環境問題』として注目を集めている。/(中略)サンゴ礁が破壊されると、まず海中の二酸化炭素の吸収がおぼつかなくなり、そして水温が上昇をはじめ、今度は逆に二酸化炭素が放出され、さらに地球温暖化が加速されるから、というのである。/科学的にもっともな説明ではあるが、この視点には、サンゴ礁に暮らす人びととかれらをとりまく政治経済状況への理解が欠如している。いうまでもなくサンゴ礁の発達する地域は熱帯なのであり、そのほとんどは、いわゆる発展途上国である。他方、ダイナマイト漁民を批判するのは、だいたいが先進国に暮らすわたしたちである」。
 本書は、この視点から、われわれが「いわゆる世界システム----先進国が先進国たりうるのは、発展途上国からあがる利益が先進国に環流する仕組み」のなかで生活しているという現実を見れば、「たんなる科学的見地から環境問題を論じるのは無責任にすぎる」と指摘する。
 そしてダイナマイト漁に関わるフィリッピン漁民の調査から、問題は、東南アジアのプランテーションの問題、フィリッピン国内での政治的軍事的対立、さらには南沙諸島海域での関係諸国の対立にまで広がっていくことが解明される。
 本書は、このダイナマイト漁を皮切りに、ナマコをめぐる「エコ・ポリティクス」----資源利用者の漁民、資源管理の枠組み作りの主体である国家や国際機関、ボーダーレスに環境保護運動を推進する環境NGOなどが入り乱れて関係しあう動態──を描く。
 実は本書には、約20年前に出版された先駆書がある。鶴見良行著『ナマコの眼』(1990年刊、現在、ちくま学芸文庫で読むことができる)がそれである。鶴見は、当時だれも関心を寄せなかったアジアの辺境----それは絶海の孤島という意味ではなく、植民地主義に見捨てられた、政治経済的にも学問史的にも見落とされた地域を指す----のナマコをめぐる現地調査から、逆に、植民地主義、国家主義を見返す視点を確立した。その特徴は次の点にある。@「モノ研究」、ある商品=ナマコに着目して、生産から、流通、消費という連鎖が持つ歴史性を一貫して追及し、このことで世界市場はヨーロッパだけに成立したものではないことを実証した。Aアジアは植民地主義にからめとられたという通説に対して、ナマコに眼を向けることにより、西洋中心主義的な植民地万能主義の歴史理解を打破しようとした。Bこの書が扱う地域は近代国家の枠を超えてアジア史を目指しており、この意味で脱国家主義を指摘することができる。
 本書は、この鶴見の視点を受け継ぎ、それ以降のナマコをめぐる世界的情勢----鶴見の時代とのもっとも大きな差異のひとつは、グローバルに展開される環境保護運動がローカルなナマコ産業にも影響を与えている点であるとされる----を、特に環境保護運動との関わりで述べる。ナマコそれ自体については、生産・種類(それは東南アジアのみならず、日本、メキシコ湾、ガラパゴス諸島に及ぶ)、消費・料理(中国は言うに及ばず、ソウル、アメリカのナマコ事情も語られる)が詳述されているので、本書を紐解かれたい。
 本書は、環境倫理学者鬼頭秀一の提起する「切り身」と「生身」という概念を用いて、自然と切れた関係では、自然の搾取も過度な環境保護もある意味では同一であるとし、部分的であろうとも自然とつながりを求める姿勢を「生身」の関係として評価する。地球環境問題では、時として加害者と被害者の二極に色分けしたがる傾向があるが、本書は、自然との「生身」の関係を求めて,さまざまな立場からの多面的な議論の必要を説く。本書の「人道主義をもちだすまでもなく、人命を危険にさらしてまでナマコ文化を守れ、と主張するつもりはない。同様に人びとが自立する権利をおかしてまで、ナマコなど保護する必要性も感じていない」という言葉が端的にこのことを示している。そしてこの意味で、ナマコとともに、捕鯨、オランウータンの保護の問題に触れることで、生物多様性の危機と文化多様性の問題を提起する。
 更に本書の視点は、鶴見と同様、東南アジア社会を鏡として、日本社会の将来を批判的に構想する展望にまで立ち至る。この視点は、東南アジア社会を「フロンティア社会」(外部に開かれた移動性の高い社会)と見ることで、日本社会の価値観のみを基準とする貧弱さを批判する視点ともなる。東南アジアを「遅れた社会」ととらえたり、明治期以降につくられた、「鎖国」に起因する日本社会を閉鎖的な農業社会、均質な社会としてとらえるイメージ、あるいは「島国根性」というフィクションをどう打破していくのか、という歴史認識の転換ということでも本書は大きなヒントを与える。本書が扱うナマコは動かないが、しかし動かない視点であるからこそ、むしろ世界の動きがよく見えるということであろうか。(R)

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