アサート No.389(2010年4月24日)

【書評】 鈴木正著 『九条と一条----平和主義と普遍的妥協の精神』
                           (農文協、1800円+税)

 憲法九条に関する議論が、戦力、防衛問題に限らず、もっと広範な領域--東アジア共同体、外国人参政権問題、社会権的基本権(二十五条)等--にまで拡大展開している現在、本書は、この問題のとらえ方そのものに一石を投じる。
 例えば、本書の書名『九条と一条』と同一の文章「九条と一条 凝り固まった日本にしないために」には、次のような箇所がある。
 「戦争をしないと誓った九条の国家・日本が、これからの世界で指標になるといい。オーバービーが『日本国憲法』九条の条文をアメリカ合衆国憲法への修正条項として導入しようと、(中略)提案している。彼の高貴な理想の戦士・現代のドン・キホーテぶりに私は尊敬と感動を覚える」。
 そして著者はその心意気を買い、真剣に九条護持を貫きたいと考える。
 ところがここに、一つの問題が生じる。「それは日本人の社会では、竹内好が『一木一草にまで天皇制が宿る』という擬似共同体意識が根を張っている点だ」。「“天皇”を頂点とする社会制度は、部分社会の茶道・華道・歌壇・文壇など、創立者の血統や有力者のコネによるヒエラルヒー秩序にみられるとおりである。家父長的な組織や世襲は政党にさえ現れている」という事実である。
 これについての方策を欠いたままでは、九条擁護を言ってみたところで、有効なものとはならない。つまり著者によれば、広い意味での国民の戦争責任を振り返ると、九条と一条は関連があり、「いまの国のあり方の根本的な争点である護憲と改憲がせりあう渦中で、一条の天皇制をなくして共和制に替え、九条はそのまま、という民主主義を徹底させる考え方が、うまく成就する」ことなど、考えられないとする。
 天皇制に対して「意識革命を毛細血管的に浸透させ変えてゆく不断の過程」、「天皇制的な心性を無化してゆく大事な営み」が必要不可欠であるとしても、上のような状況から考えれば、九条のみを強調することには問題があることになる。それよりもむしろ、現実の状況を踏まえて運動を進めることのほうが重要となる。著者に言わせれば、「天皇制といってもピンからキリまである」ということである。
 ここでの著者の視点は、その研究対象である日本近現代思想史の安藤昌益の「われは兵を語らず、戦わず」という平和主義と「普遍的妥協の精神」(安藤を発見した狩野亨吉の言葉)から出ている。後者の「普遍的妥協の精神」とは、「百年の後を期す姿勢」を持つことであり、「百年の後を期したから、何もしない人間になってはいけない、公にすべきことと、やるべきことはやる、そのやるべきこととはというのは、真道を平和的に人に伝え宣伝することしかない」ということである。
 この意味で著者は、現天皇が自分の象徴責任が悪用される恐れがあるときに行う抑止的な政治的発言に注目する。すなわち昭和天皇の戦争責発言をした本島・長崎市長が狙撃されたときに、天皇問題を含めての言論の自由を語っていること、あるいは園遊会で米長邦雄・東京都教育委員が国旗国歌の強制を言ったときに、その発言をたしなめていること、等を評価する。
 このことから、「現天皇があのように発言できるのは、それに基いて頼りにするところの日本国憲法が存在するからであろう。その精神をまもることが、いまこそ大切だと私は思っている」と述べることで、著者は、天皇制を超えていく意識変革の不断の努力とともに、現実のできるべき事柄を見極めて実行に移していくことこそが、未来の変革へとつながることを強調する。
 以上の議論には徹底性ということからは異論があるかも知れないが、しかしその視点の有効性もまた認識されねばならないであろう。
 本書には上のような視点から、三木清、竹内好、グラムシ等、さまざまな日本の近現代思想に関する論稿が収められている。中でも安藤昌益を論じた「安藤昌益の平和主義と普遍的妥協の精神」、そして『中井正一エッセンス』(2003年、こぶし書房)の解説である「中井正一という鏡──実践の論理の回心軸」は、秀逸である。(R) 

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